はじめよう 印鑑生活!
A君の母親はその件について先方に自分たちは関係ないとか、本人に直接いってくれとか、本人とあなたとの問題ではないか、というようなことはけっしていわなかった。
“わかりました”とだけ短くいつも答えて、自分が養育費を払いつづけた。
誇りの高さとももともと意に染まぬ相手へのこの母親らしい変わった意地とも考えられるが、一度としてこの件の扱いについて、兄に説教するよう母親にいわなかったA君も含めて、二人の行為はある種の生真面目さに貫かれていたのではないかと思われる。
A君の場合は優しさとも気の弱さとも理解できないではないが、母親としてはまだまだ30歳近い息子が子どもで子どもの不始末はやはり保護者の自分が……という気持ちがごくすんなり先行したのではないかと思われる)。
それでもやはり、母親の愚痴はつづいた。
現実問題、経済観念のない長男の金の使い方を見ていると腹が立ち、しばらくおさまっていたヒステリーの小発作があらわれるようになった。
といって、息子が憎いわけではすこしもなくて、えんえんとA君相手に兄の悪口をいいつづけた翌日、兄と二人して仲良く植木をいじったりしているのだった(そういう折はさすがの兄も仕事を休んで母親の機嫌とりにつとめた)。
つまり、母親は母親なりにA君と兄との間に入ってすくなからず悩むところかおり、時に兄のことを時にA君にあしざまに告けるのは、養育費の一部をA君が負担していることへの呵責故なのであろうが、それを兄がすこしも意識できないので、洪水のような愚痴となり、かえってA君のストレス を倍増させてしまう場合が多かった。
長男の離婚について、A君の父親がどういう態度をとり、どういう意見を述べたかはまったくわからない。
すくなくともその件に巻きこまれたのは母親とA君だけだった─その事実は確かなようだ。
ここまでの問題でも父親の存在はまるで稀薄だ。
だから、母親としてみれば長男の問題で夫がまったくあてにならないので、せめてA君に夫がわりに頼りたかったのかもしれない。
A君にはそれが重すぎた。
金で解決できない部分の重みがとくにこたえた。
A君にはとても母親の相談役にはなれないし、ましてや彼女のストレスの吐け口になるのは閉口であった。
父親でさえつとまらなかった役目、がA君につとまるわけがなかった。
母親が精神安定剤や睡眠薬を用いる量もふえたが、A君の服用もふえた。
母親の分だけでは足りないので、精神病院の精神科でもらってくるようになった。
症状だけいえば神経科はたやすく薬を出してくれる。
それでも眠れず、睡眠不足の状態で始終つきまとうようになった苛々を消すための精神安定剤を飲むと、昼間学校でつい職員室で座っている時などぼんやりするようになった。
それでも授業はきちんと頑張ってやった。
下調べも相変わらず手は抜かない。
下調べのため部屋にこもっていると、兄と母親のいさかいが聞こえ、仕方なく仲裁に出ていくと、何時間も母親につかまる。
ただでさえ時間のかかる下調べをその後もつづけると空か明るんでくる。
それでも終らない。
すこし眠らねばと睡眠薬を飲むが、終っていないことが気になって眠れず、苛々してくる。
自分を嘲笑っているZ先生の顔さえ目に浮かぶ。
そうこうしているうちに出勤時間になり、苛々が昂じてくるのを消すために精神安定剤を飲んで出かけることになる。
そういうパターンがつづいた。
食欲のないことはないのだが、食べても食べても慢性的な神経性の下痢のためやせた。
夜ほとんど寝ていないのと、睡眠薬と精神安定剤の相乗作用で緊張のとける休み時間や授業のない時間は、どうしても頭が空白になり、目はあいているが人の話声が遠くなった。
人間はまったくの不眠だと死んでしまうから、とぎれとぎれとはいえこういう形でA君は眠っていたわけだ。
そうなると多少周囲の人たちはA君の状態がおかしいことに気がついたが、なにぶん真面目な人なので勉強しすぎているのではないか、と思っていたようだった。
そんなA君を心配し、力づける意味もあって、T先生は久しぶりに帰宅した単身赴任中の夫と自分や夫の親戚筋にあたる若い人たち、A君ほどかやや若い人たちと一緒にA君を呼び、ホームパーティを開いた。
T先生の夫もこういう行事が好きで苦にならない方だったから、とりたててA君のために開いたパーティではなく、あくまでもにぎやかなことと若者好きの夫を中心にした催しであった。
T先生に誘いを受けるとことおったことのないA君は、以前にもましてやせほそった身体と白茶けてひきつった顔つきではあったが、出席した。
元気であった頃の身だしなみの良さは失われて、髪は手入れが行き届いていない上に、洗髪が定期的にされていないように粘ってふけが見え、皮膚はつやを失い、着ている洋服もふくめて、全体が臭かった。
かびくさいような口臭は薬のせいかもしれなかった。
T先生は他の若者とくらべてA君はまるで年代が違うように老けて見えたという。
また、T先生のねらいはA君が同世代の若者にとけこんで、なお一人ぐらいガールフレンドでも見つける機会にしてくれればいいと思っていたのだが、その思いはかえって裏目に出た。
ひととおり座にアルコールがまわって、みんなが点々にいいたいことを相手に失礼でない程度に冗談めかしていいかわしはじめて、もてあまし気味の若さを発散しはじめると、A君の機嫌が極端に悪くなった。
まず、話しかげられてもあいづちを打たなくなった。
むっつりと黙りこんだまま、もちろん話しかけようともしなくなった。
そのうちに突然立ち上がった。
A君は自分中心に座の話題が動いてくれないのが不満だったのだ。
「僕は帰ります、こんな不愉快な集まりってありませんよ。
帰ります。
それに女の酔っ払いは大嫌いなんだ。
僕これ以上いたくありません」そういいながら、A君はまた座った、T先生かひきとめて話しかけてくれるのを待っているかのように。
座はあっという間に白けて、一同は全員黙りこんだ。
A君のいいようがあまりに迫真的だったことと、T先生夫婦の親戚筋やその友達の若者たちはきわめてマナーのいいおとなしい人たちばかりだったから、A君の言動にたいして反論していよいよ座が気まずくなるようなことをひかえたものらしかった。
そこで同じように黙っていたT先生の夫が静かなしかし強い調子でいった。
「悪いけど君帰ってくれませんか。
君みたいな人が社会人でしかも教師だなんて、僕にはとても信じたくないことなので」そういわれてあやつり人形のように立ち上かって挨拶もなく玄関へと向かったA君の顔は、いっそう死人のように蒼く、凍りついたように無表情だったという。
以来さすがのT先生もA君に言葉をかけなくなった。
理由はあの時のA君の態度がどうしてもT先生には理解できなかったからであった。
礼儀正しくT先生の両親にも”現代稀にみる”とまでウケたA君ととても同一人物とは思えず、T先生は悪鬼の形相を確かにあの時のA君に見てしまったのだ。
T先生がA君に感じはじめた感情はやはり”普通の人ではない人柄への薄気味悪さ”であった。
以前は年上の自分に甘えてくれる若い異性の存在は、たぶんに母性的なT先生にとって満更でもないものだったにもかかわらず……である。
事件が起こったのは文化祭の後始末の時間帯であった。
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